"The Life and Mind of Oriental Jones" から、
ジョーンズの人となりを伝えるものを二つ紹介しよう。
当時の多くのイギリス人にとって、インドでの仕事は財産を作るための手段でしかなかった。武力を背景に、地位を利用して私腹を肥やしていた者が多く、
東インド会社社員の腐敗振りは本国の利害とも対立するほどであった。客観的には、ジョーンズは英国の植民地支配の「尖兵」ではあったが、主観的には彼にとって、
アジアは文明化するべき野蛮な世界ではなく、インドも搾取の対象ではなかったようだ。このメモは、植民地の歴史や文化を尊重し、それを知的関心の対象と認める
ジョーンズの特異性を示している。
彼は1784年、熱病におかされた時に次のような祈りも書いている。
O thou Bestower of all Good! if it please thee to continue my easy tasks in this life, grant me strength to perform them as a faithful servant; but if thy wisdom hath willed to end them by this thy visitation, admit me, not weighing my unworthiness, but through thy mercy declared in Christ, into thy heavenly mansions, that I may continually advance in happiness, by advancing in true knowledge and awful love of thee. Thy will be done!
ジョーンズには、学問とは真実の追究である、真実の共有によって真実はさらに発展する、学者たる者は真実を追究する努力とその成果によって人類に貢献できる、 という信念があった。インドとヨーロッパの知識人が、研究の成果を共有する場が必要だと考えた彼は、アジア協会(the Asiatic Society)を創設し、自らも 数々の作品や論文を率先して発表した。天国に行く事になったら、そこでも真の知識を追求し続けたいという祈りに触れて、その学者魂に感銘をうける人も多いのでは ないだろうか。思えば、philology(言語学)の語源は、ギリシャ語philologiaであるが、これは「学問を愛する」という意味でもあった。