ラテン語の教養・漢文の教養 

古典の素養がないと知的な内容を弁ずるのが難しいことを示す好例が、我が近代文学にもある。夏目漱石の 『坊っちゃん』 である。バッタ事件 をおこした寄宿生の処分をめぐる職員会議を思い出してほしい。

件の職員会議で坊っちゃんは、事なかれ主義の狸(校長)や赤シャツ(教頭)に反論しようとして、心のうちで腹案を作り始める。ところが 野太鼓(画学教師)が立ち上がり、日ごろの芸人風「・・・でげす」口調を返上して、立て板に水のごとくゴマスリ演説を始めた。

まずは、この野太鼓の台詞をみておこう。

野太鼓の云う事は「言語はあるが意味がない、漢語をのべつに陳列するぎりで訳が分らない。分かったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ」と思った 坊っちゃんは立腹して、腹案ができないうちに起ち上がってしまう。坊っちゃんの言動を見てみよう。

ほかの教師たちが次々に教頭の穏便説に賛成していくなかで、最後に起立した山嵐(数学教師)が反対表明をする。

正に熱誠他を圧する名演説といえよう。冒頭での鮮明な立場の表明、生徒に全面的な非があることの論証、教育の理念に照らして生徒を厳罰に処すべきだという 主張、さらにその具体策の提示、という内容が、適材適所の語を駆使して語られたのである。このような弁論術を山嵐はどこで習得したのだろうか。

この演説を特徴付けることの一つは、軽侮、翻弄、所為、愚弄、軽薄、掃蕩、弊風、等々の漢語の絶妙な使い方だろう。これらの語をすべて和語に置き換えて、なお 同じように効果的な弁論を構成できるとは到底思えない。ラテン語借入語をすべて排除して、知的で公的な内容を扱う英文が考えられないのと同じような事が 日本語でもいえるのだ。

山嵐が豊富な漢語を自由に繰ることができたのは、当時の多くの知識人と同様に、漢籍の素養が血肉として身につくような環境に育ったからではないだろうか。 ひるがえって、われらが坊っちゃんの生育環境はどうだろうか。彼の両親はどう考えても坊っちゃんの教育に関心を持っていたとはいえず、可愛がってくれた清は残念 ながら教育のある人ではない。おかげで坊っちゃんは「学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平御免だ」ということになり、 弁舌を磨く事には一向関心をもたないままに成人となった。そして、公の場で知的に話すのにふさわしい言葉としての「標準語」を使えないまま、教師となった。

坊っちゃんは教場で、巻き舌のべらんめい調で講釈して生徒を煙に巻いたつもりでいる。だから、「もちっと、ゆるゆる遣っておくれんかな、もし」と生徒から言 われても、からかわれていることに気づかない。職員会議でも、おそらく前代未聞の「頓珍漢な」というベらんめーを披露して失笑を浴びるが、「こんな手合いを 弁口で屈服させる手際」はないのだから、これ以上しゃべるものか、生徒にあやまらせるという要求が通らなければ辞職するまでだとすましたものであった。

とはいえ、坊っちゃんは山嵐の演説に感動する。「おれの云おうと思うところをおれの代わりに山嵐がすっかり言ってくれた様なものだ」と。やはり本心は、できたら 自分の舌で大いに弁じたいということだろう。東京に舞い戻った坊っちゃんは、街鉄の技手になる。今度は一家を構えて清を扶養する立場である。かんしゃくを起こして辞職する わけにはいかない。故郷の町で彼は、べらんめいとは別の、職や地位にふさわしく、それでいて「母語」たるべらんめいとも響きあうような、新しいもう一つの 「舌」を獲得するのではないだろうか。

ところで作者漱石には、愛媛県尋常中学校の『保恵会雑誌』の依頼で書いた「愚見数則」という文章がある。筆者はこれが山嵐の演説の原型ともいえると 思うのだが、如何だろうか。明治中期の知識人で、漢学にも洋学にも通じていた人の文体を覗いてみることも、ラテン語と英語の関係を考える上で参考になる事がある と思われるので、以下に一部を引用する。