英語学習者が学ぶべき古典文化の筆頭は、雄弁術かもしれない。
一点に拘泥する「縷述」、 語られている事以上の意義があることをにおわせる「ほのめかし」、
省略されてしかも明確さを失わない「簡潔さ」、 対象をおとしめる「矮小化」、 教義に反しない限りでの「嘲笑」、
一通りの喜びを与える「長い余談」、 「事実を事実以上に見せる誇張」、 人の心に忍び込んで大きな影響を与える「皮肉」、
罪や過失の「転嫁法」、 「陽気な気持ちに駆り立てる法」、 効果を増すための「自由奔放な語り口」、 「怒ってみせる法」、
「哀訴」、 「懇願」、 「聴衆の好意を得る法」、 「人身攻撃」、 「呪詛」、 「何か予期せぬ意外な言葉」、
「畳み掛けるような語句の連続」、 「脱線」、 「迂言」
英語で書かれた演説を聞いたり読んだり
するときには、演説者が意識するか否かにかかわらず、
そこには、ギリシャに源を発しローマを経て連綿と受け継がれてきた弁論術が適用されていることを思い出したほうが良い。その際忘れてならないのは、良き伝統が受け
継がれる一方では、悪しき伝統も継承されるという一般的真理である。
『弁論家について』という著作の中でキケロは、95年の執政官にして当代随一の弁論家クラッススに、弁論の力は「人格の立派さと賢明さに結びついていなければな
らない」、徳のない者に弁論術を授けるのは「狂人に刃物を与えること」だと言わせている。
しかし、キケロ以前にも以後にも、弁論術は時には、「死刑にしたい者を死刑にし、自分の望む者から財産を取り上げる」ために悪用もされてきた。憂うべき
伝統もしっかりと継承されてきたという現実に無自覚では、雄弁と詭弁を見分ける能力は育たない。
キケロ(=クラッスス)は、剣や拳闘の鍛錬をする者は、攻撃や防御の方法だけでなく優美な動きをも会得しなければならない、同様に
弁論家は、弁論の全体に詞(ことば)の彩、文の彩をちりばめて言論を際立たせなければならないと述べ、無数にあるという詞彩、文彩を列挙している。以下はその
ほんの一部であるが、どれも悪用も善用もされうるものであり、実際、今日の英語においても悪用もされ、また善用もされているのである。