=====用語解説=========

ゲルマン民族

印欧語族 の一派。 紀元前2000年から1000年くらいの間にバルト海沿岸に定住し、最初は共通の言語を話していた比較的 小規模の集団であったと考えられている。 ゲルマン人は長い時間をかけて、先住民と戦いながら四方にひろがっていった。

古代ローマの政治家で歴史家でもあったタキトゥスの『ゲルマニア』によれば、これが書かれた紀元100年頃、ゲルマン人はすでにたくさんの種族に分かれていて、 そのうちのいくつかはローマ帝国を脅かす存在にまでなっていた。タキトゥスは、この時代のゲルマン人について、好戦的で、耕作によって収穫を得るより、 略奪によって食料を得たいと考える民族だと述べ、「血をもって得られるものを、あえて額に汗して獲得するのは怠惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えている のである。」とまで書いている。

タキトゥスの生きた時代は、「ローマの平和」と呼ばれた古代ローマ帝国の全盛期だった。にもかかわらず、この歴史家の慧眼は、栄華にひそむ頽廃を見抜き、そこに帝国 崩壊の兆候さえとらえていた。そのため、帝国の北に隣接する好戦的な蛮族に対して、彼は強い危機感を抱いていた。

ゲルマン人内部の抗争についての記事がこのことを如実に物語っている。タキトゥスは、いくつかの種族が連合してブルクテリー族を追放し、多くの戦死者がでた紀元97年の「同士討ち」 事件について、ローマの武器を使わずに、六万人以上が「我々の眼を楽しませながら、倒れていった」、これは 「われわれローマに対する神々の特別の恵み」ではなかったのかと述べている。さらに、帝国の運命が切迫した今にあっては、運命の女神のもたらすもの で敵同士の不和ほど大いなるものはない、ゲルマン人たちは永続的に憎悪しあってほしいと願っている。

タキトゥスの予感は杞憂ではなかった。 376年、西ゴート族がドナウ川を渡りローマ帝国内に入り、 大規模で波状的なゲルマン諸族の侵攻が開始された。この混乱の中で、476年、西ローマ帝国は滅亡する。 この大移動の一環として、ゲルマン民族の 一派である アングロ・サクソン族 も大挙して、ローマ撤退後のブリテン島に移住し、この島の大部分を支配下 においた。